マイストーリーコンテスト
最優秀賞

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 一見、無骨にも見える寡黙な茶色のボトルは、いつも実家の居間の片隅にあった。昭和三十年半ば、私が小学生の頃のことだ。私の父は、当時、海外航路の船乗りだった。冷蔵庫、洗濯機、テレビが三種の神器と呼ばれ、テレビではプロレス中継が大人気を博した時代だ。
 父は半年に一度くらい、海外から土産を手に帰って来た。チョコレート、パインナップル、バター、あの茶色のボトル、オールドパーも、きっとそれらと一緒に海を渡って来たに違いない。
 家に帰ると父は、家族にさまざまな国の様子を話して聞かせた。父の語る夢のような話に、私は海の向こうの遠い異国に思いを馳せた。それと当時に、家に居ることがなく一緒に過ごす時間の少なかった父も、また「異国」のように、私にとっては遠い存在だったのである。

 やがて自意識が芽生えた私は、そんな父に馴染めないまま父と口をきかなくなっていた。
そして、就職して家を出てからも、ずっと疎遠な間柄が続いたのである。

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 やがて父は他界した。私は定年を迎えた。送別会の帰り、私は喧噪から逃れたい感傷的な気持ちで、通りがかりのバーに立ち寄った。カウンターに腰掛け棚に目をやると、片隅にオールドパーがあった。その姿は、かつて私が子供の頃見たものと同じであった。私は懐かしい気持ちでオールドパーを注文した。グラスに琥珀色の柔らかい波頭が立った。そっと唇で触れると、華やかな香りが口いっぱいに広がった。その瞬間、居間の片隅にあったあの寡黙なボトルが、何十年もの沈黙を破って、饒舌に語り始めたような気がした。

 私の脳裏に暗い海が浮かんだ。父はたった一人遠い異国の地で、どこまでも続く暗い海を見ながら何を考えていたのだろう。家族と囲む暖かい食卓だっただろうか、それとも、子供達の屈託のない笑顔だっただろうか、そんな思いが胸をよぎり、思わず眼がしらが熱くなった。そして、そんな父の気持ちを察しようともせず、つまらない自意識に心を閉ざし、我儘に振る舞い続けた自分を恥じた。

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 一杯、そしてもう一杯とグラスを傾けるにつれ、私は、グラスの中で静かに溶かされていく氷のように、自分の胸の中で父へのわだかまりがゆっくりと溶かされ、代わりに温かく優しい思いが広がって行くのを感じていた。私は、子供の頃に見たあのオールドパーのボトルを今夜開けたのかもしれない、そして、遠い「異国」の父との会話が今始まったのだ、と思った。
 これからの第二の人生は、オールドパーを挟んで父とゆっくり語り合いたい、そう思って私はバーを後にした。外へ出ると早春の夜風が甘い花の香りを運んで来た。いつしか脳裏に描いた海は深い青色を湛え、美しい水平線を描いていた。

出典:
朝日新聞デジタル AERA STYLE MAGAZINE「オールドパーを愛したニッポンの男たち」
マイストーリーコンテスト 最優秀賞 静岡県 及川敏夫さん
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