「あの人と私」部門 部門賞

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 七年ほど前、近くにある実家が、建て替えのため解体されるその数日前のこと。そこには高齢の両親が棲んでおり、閑散とした二階には学生まで私が使っていた部屋がそのまま残されていた。ガラクタの片づけのため久方ぶりにその部屋へ入ると、古い木目の黒ずんだ机が片隅にあり、私は早速引出を開け作業にとりかかった。「こんなモノ、よくとってたな」とひとりごとを呟きながらガラクタと格闘していた、そんな時、私は引出の奥に何やら見覚えのある、まだ削られていない古びた一本の鉛筆に気付いた。 「谷間の一本杉になれ」

 鉛筆にはこの言葉とともに校長先生の名前が刻まれており、私が小学校一年生だったか、その頃目にした校長先生の姿を自然に思い起こした。放課後の校庭で毎日のように泥にまみれ大八車を押し、花壇や植え込みの手入れにたった一人で精を出し、「先生さようなら」と声をかける子どもたちに、背中越しにこっくり頷き、その一瞬表情が緩む、そんな姿をである。
 鉛筆はこの校長が急逝された後に、担任の先生を通じて生徒全員に渡されたご家族からのものであったが、私はこの校長のことをそれ以外ほとんど知らないままであった。

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「谷間の一本杉になれ」
 この言葉を当時の私はそのままに「逞しく育つんだぞ」というシンプルなメッセージとして受け取っていたであろう。しかしながら五十を超え再びこの鉛筆を手にした私にとってこの言葉はひときわ心に響く閃光のように思われてならなかった。
 様々な重圧や葛藤や孤独感の中で溜息をつく毎日。そんな私の姿を見越したかのような、時空を超えた言葉が刻まれた一本の鉛筆を見つめ私は言葉を失い、次の瞬間にはメッセージの主に問いかけてみたい気がした。「あなたは孤独だったのですか?」、「不条理や理不尽にどう立ち向かったのですか?」、「私もあなたのように孤高に生きぬくことはできるのでしょうか?」

 あの不思議な出来事から月日が流れ、私も今年で還暦を迎える。校長先生のあの言葉は今でも私の心にあり、時々思い出すたびに、顔の皺がまた一つ刻めたような気がしている。

出典:
朝日新聞デジタル AERA STYLE MAGAZINE「オールドパーを愛したニッポンの男たち」
マイストーリーコンテスト 部門賞 福岡県 江藤健三さん 「あの人と私」部門
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